SUBARU六連星伝説 〜 中島飛行機の末裔たち 後編

名車スバル1000登場

SUBARU1000

ドライブシャフトが通らない為に足元を広く取れた。
 昭和41年5月14日、富士重工業初の小型車であるスバル1000が発売された。この、スバル1000と 名付けられた4ドア/2ドアの5人乗りのセダンは前年の東京モータショーに展示され、大きなセン セーションを巻き起こした。それまでのスバルとはうって変わり、FF方式が採用されていたから である。それは国産の大衆車としては最初のものであった。
 スバル360の成功で自信を得た富士重工業の次の目標は小型車クラスに進出することであった。 時は既に高度成長期に入っており、トヨタはカローラ、日産はサニー、マツダはファミリアを 開発しつつあった。富士重工業でも挫折したスバル1500に変わる新世代ファミリーカの構想が 着々と進んでいた。プロジェクトリーダはスバル360の開発責任者として非凡な才能を発揮した 百瀬晋六である。スバル1500の経験から、プロペラシャフトの振動に悩まされない、スペース 効率など、度重なる議論の末に導き出されたのは、前輪駆動のFF方式を採用することであった。 ちなみに、このFF(フロントエンジン・フロントドライブ)という言葉は富士重工業が使い始め、 いつしか前輪駆動を表す一般的な言葉となった。

SUBARU ff-1 1100

スバル ff-1スポーツ1100(昭和45年)

 前輪駆動方式自体は特に新しいものではなく、戦前にフランスのシトロエンなどが実用化 されており、さらに1959年のオースチン・ミニで小型車でも実用化は進められていた。しかし、 この当時の駆動方式は後輪駆動のFRが主流であった。多くのエンジニアが二の足を踏んだ理由は、 荷重配分や等速ジョイントなど、解決すべき問題が山積していたからである。だが、スバルの エンジニアはFF方式に多くのメリットがあると判断し、この方式に固執した。難問だった等速 ジョイントは、東洋ベアリングとの共同開発でこの問題を解決している。
 エンジンは後のスバルの代名詞となり、今もレガシィ、インプレッサに載まれている水平対向 4気筒である。その理由を百瀬は「直列4気筒と比べて全長が短くできるし、高さも低く抑えることが できました。低い位置にあるエンジンは安全性の面で有利だし、 対向位置にあるシリンダー配置は振動の面でも有利に働きましたね」と述べている。また、後の 4WD化に有利に働いたことは言うまでもない。他のメカニズムに目をやってみると、駆動軸の付け根に ブレーキを配したインボードブレーキ、デュアルラジエター、電動ファンの採用などかなり凝った 造りであった。その後、スバル1000スポーツ、ff-1、ff-1 1300Gと進化し、レオーネへと引き継がれた。

4WDのスバル

 昭和46年、宮城スバルから富士重工業へ、1台の試作車が持ち込まれた。東北電力の依頼によって 製作したスバル1000バン4WDであった。この試作4WDを見たスバル技術陣は、本格的な商品化へ向けて 動き出した。こうして同年秋の第18回東京モーターショーにスバルff-1・1300Gバン4WDが発表展示 された。これが記念すべきスバル4WDの出発点であった。

遺産の継承〜そしてレガシィへ

 ff-1の後継車として昭和46年、レオーネが登場した。そして、翌47年にレオーネ4WDエステート・バン を発売した。発売当初は積雪地や山間部の事業用としてもてはやされたが、徐々にレジャーユースも 増えていった。昭和50年には1400セダンに4WDモデルを投入する。これを機に「4WDのスバル」の イメージが人々に浸透しはじめた。昭和54年に2代目へと変わり、昭和56年6月にはレガシィの前身 とでも言うべき本格派のステーションワゴンを送り込む。後にAT車、ターボ車、フルタイム4WD車を追加。 ここにレガシィの原形が完成した。
 昭和から平成へと時代が変わる頃、一つの記録が生まれた。FIA公認の10万km世界速度記録をレガシィ が達成したのである。平均速度は223.345km/hであった。

SUBARU LEGACY RS

世界速度記録を達成したレガシィ。スバル新時代の幕開け
でもあった。

 そして平成元年2月、スバルが社運を賭けて開発したレガシィが華々しいデビューを飾ったのである。 英語で「継承、遺産」の意味を持つレガシィは、スバル1000以来の水平対向エンジンを、レオーネ以来の 4WDシステムを更に進化させて生まれてきた。ここで特筆すべき点は、ツーリングワゴン(BF系)を ラインナップに加えていたことである。商用バンを持たずワゴン専用とし、セダンRS譲りのDOHCターボ エンジンを搭載したGTを加える事で一躍、日本のステーションワゴンの代名詞となったのである。 一方、1990年からはWRCに参戦し、1993年の第8戦ニュージーランドでコリン・マクレーの操るレガシィは 初優勝を獲得した。
 中島飛行機以来、進取の気質を持つ個性派の富士重工業。六連星は夜空の星の如く、いつまでも輝き 続けるであろう。

 (文中敬称略)

 SUBARU六連星伝説 おわり

参考文献

     ノスタルジック・ヒーロ 1990年12月号
     Old Timer 1992年10月号
     SUBARU 孤高の挑戦者(1994WRC SCENE) JAF出版社
     Car Ex 1995年11月号臨時増刊 スバル・レガシィ・ブック
     cartopia 1996年5月号
     J's Tipo 1996年4月号

※このページは LEGACY BF CLUB の 会報「BF FAN」に掲載した内容をweb用に修正したものです。


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